All Tomorrow’s Girls

It's hard to stay mad, when there's so much beauty in the world. ━American Beauty

Michael Nyman "Memorial"

この数日間、マイケル・ナイマンが手がけたサウンドトラックばかり聴いている。
ナイマンの曲に出会ったのは、多くの方同様、私もピーター・グリーナウェイ監督の映画から。
映画の話をちょっとすると、グリーナウェイ作品そのものは、観たのが、テレビで「建築家の腹」。ビデオ(とDVD)で「数に溺れて」、「ZOO」、「ピーター・グリーナウェイ枕草子 」。劇場で「コックと泥棒、その妻と愛人 」、「プロスペローの本」、「ベイビー・オブ・マコン」で、7本観た。
ナイマンの話に戻すと、私がiTunesに入れているサウンドトラックは、以下の6枚のアルバム。映画は未見だが、「英国式庭園殺人事件」(The Draughtsman's Contract)は、クラシックとして聴いている。


The Draughtsman's Contract (1982 Film) A Zed And Two Noughts: Original Music From The Film By Peter Greenaway The Cook, The Thief, His Wife & Her Lover (1989 Film) Nyman;Prospero's Books The Piano: Original Music From The Film By Jane Campion フィルム・ミュージック~ベスト・オブ・マイケル・ナイマン


で、と、サウンドトラックアルバムとしては、「ZOO」が一番好きなのだが、ベストを1曲選ぶとしたら、12分に及ぶ「メモリアル」だろうな。
"Memorial"
この曲は60分に及ぶ大作の一部で、サッカーの試合で死亡したファン(ヘイゼルの悲劇)に捧げたレクイエムだ。実際に60分間演奏されたことがあるのか気になったので、CDについていたライナーノーツを引っ張り出して読んでみた。以下に引用する。(原文はこちらのページで読める。)

コックと泥棒、その妻と愛人

 『コックと泥棒、その妻と愛人』の“メモリアル”は、私が『数に溺れて』のサウンドトラック・アルバム用に書き上げた曲と共に、死の音楽のリストを広げている。“メモリアル”は映画の全編に渡って使われているが、完全な形で流れるのは「コック」によって支度され、「妻」によって、彼女の夫である「泥棒」のための料理として給仕された「愛人」の身体を運んで行進する、最後の場面のみだ。


 だが、“メモリアル”は――私にとってはこれからも――作り物の映画の終焉ではなく、1985年5月29日の夜、テレビを通して世界中に目撃された、ブリュッセルのヘイゼル・スタジアムで死亡した39名のイタリア市民と固く結び付けられた曲だったのだ。

 そのころ私は、過剰に作られた揚げ句に原子力のお陰で沈黙させられてしまった、イェインヴィルの電力発電所の中での1時間ほどの公演という、ルアンのセーヌ・マリティーム夏季祭の委員会主催の大規模な仕事に取り組んでいた。利用時に備えて保存されているその桁外れな規模の建物の中には、大きく重い発電機とタービンの不変のコレクションが、そして一番奥には大きな窓があった。10秒ほどの残響を作るのにちょうどいいと思われたこれらすべての特徴は、実際その通りで、ゆるやかで力強い、この最高の生の音響効果により引き起こされた美しい響きが重なり合う中の配列は、破壊的にならないような形に作られた。

 あの水曜の夜、リヴァプールユヴェントスのサッカー試合を見ようとテレビをつけた私は、大虐殺を目撃した。その後の数日間の新聞に掲載されていた、悲しみに暮れる家族たちの写真は私に深い衝撃を与え、はじめは抽象的で無意味で無題だった文章は、徐々に死亡したサッカー・ファンに対する追悼へと変化していった。

 しかし、作品の音楽的な内容は変わっていないにもかかわらず、公演を取り巻く環境、「情況」は、決してくりかえされてはならない事件に対しての意義深い貢献をしていた。発電所は、演奏者たちの後ろの窓に掛けられたポール・リチャーズの巨大なキスの絵に見下ろされ、不朽の産業大聖堂(フィアットがスポンサーであるユヴェントスにはまさにふさわしい)となった。この絵(あらためていうが、ヘイゼルの事件が起こる以前に構想されたものだ)は、照明のフィルターが異なった色素を強調するように絶えず色を変え、そして、時折セーヌ川を建物に沿って下ってゆく船の明かりが、より効果を与えていた。コンサートの雰囲気は、清潔な白の作業ズボンと黄色いヘルメットを身につけた、以前の健全なフェスティバルの主催者たちが、聴衆の中の孤立した集団を唐突に警備重視のコンサート会場の中へと案内する、当初の少々ばかげた冷ややかさを与え続けるというものだった。“メモリアル”は、1985年6月15日の、あの一度きりの、緊張に満ちた上演しかおこなっていない。上演のためのその他の試みはすべて、中途半端な状態のまま失敗に終わり、また、事件から3年目の「記念」にと、リヴァプールのブルーコート・アート・センターによって提案されたコンサートは、不適当ということで実現には至らなかった。私はこの曲が、世間で起きたあらゆる不幸の後に流される、一般的な葬儀用の曲となるべきだと考えたわけではない。心に留めておきたい意義のある事がらがあったがゆえに、資産剥奪の過程に、“メモリアル”を差し出すことを決心したのだ。そして、「コック」を特徴づけるために求めている音楽のタイプを話してくれたピーター・グリーナウェイに、フランスのラジオでレコーディングした第5楽章を聴かせたところ、それが彼の考えていたものと完璧に一致したので、このように映画の根底に置かれるようになったというわけだ。(中略)

 しかし、音楽面の最初の作業中にヘイゼル・スタジアムの不幸が起こったように、"Les Murs des Fe'de're's" のインストゥルメンタルとヴォーカルのレコーディングの二度目の補正作業中だった1989年4月15日の午後、私は、シェフィールドのヒルズボロー競技場でのノッティンガム・フォレストとのFAカップ準決勝戦中に、95人のリヴァプール・ファンが圧死したというニュースを聞いた。
 
 数日後、ブルーコート・センターのジェイン・ケイシーが、リヴァプールで“メモリアル”の完全版を演奏してくれないかと電話をかけてきた。私は少々当惑しながらも、作品は消滅している、もはやその使い道はないと考えていたからだ、と説明したのだった。

マイケル・ナイマン 1989年             
                              [訳:浅見和恵 / made in Heaven]



参照サイト:
+++マイケル・ナイマン・インタビュー 01+++
+++マイケル・ナイマン・インタビュー 02+++
+++マイケル・ナイマン・インタビュー 03+++


2006年の来日コンサートに行かれた方のブログ。ポスターのバンドのメンバーがかっこいい。

☆晴れたり,曇ったり☆  40代シングルの日々雑感。 : 2006・6・10 ? 『マイケル・ナイマン・バンド』コンサート2006。