昭和を代表する写真家のひとり、林忠彦(大正7年3月5日 - 平成2年12月18日)の写真集『文士の時代』(朝日文庫)が面白い。あとがきを読むと、この本に収められた121人の作家は、氏が、いかにも文士らしい文士をピックアップしてまとめたとある。写真に添えられた文章から、今では想像もつかないような戦後の文士たちの奇行ぶりも分かって興味深い。
私が読んで特に印象深かった箇所を、いくつか引用して紹介したい。
「ときに安吾さん、いったいどこで仕事をしているんですか」って訊いたら、「隣の部屋だよ。この女にもまだ見せたことないんだよ」「ぜひ一回見せてよ」「この女にも見せたことない部屋を見せられるか」「一台新しいカメラを買ったんで、なんか記念すべき写真を撮りたい一心できょうは早く来たんですよ。ぜひ見せてくださいよ」。しつこく頼んだら、「しようがねぇなあ」と言いながら、安吾さん、廊下をへだてたふすまをポッとあけた。びっくり仰天でした。ほこりが一斉に浮き立って、万年床から綿がはみ出して、机のまわりは紙クズの山。部屋中に一センチは、ほこりが真っ白にたまっていました。
p.89 坂口安吾 から
よく昔から「四十にして惑わず」といいます。今では、四十じゃなくて、五十すぎでしょうが、五十すぎてひとかどの人物であれば、下町の職人であろうと、だれであろうと、一流といわれるほどの人は絶対にどこかいい顔をしている。箔がつくというのか、顔に年輪がつくといいますか、その人の個性や偉さというものが皮膚にあらわれてくるものです。そこをぎゅっとつかめば、本当にいい写真になる。ところが、実に不思議なことに、三島由紀夫さんだけは、この「顔のきまり」があてはまらなかった。僕が撮ったなかで一番むずかしい顔の持ち主だったと思います。名声にまだ顔がついていかなかったといえばいいのか。そういうふうに感じたのは、三島由紀夫さんだけでした。
p.96 三島由紀夫 から
どこの料亭だったか。二階でしたが、林芙美子さんは遅れてきて、階段を四つんばいになってはってあがるんですよ。「いったい、どうなさったんですか」って訊いたら、「いや、近ごろ胸が苦しくなってねぇ、階段あがるのがやっとなのよ」。写真を撮りはじめましたが、その当時は今のストロボとちがって、フラッシュバルブで、粗悪品が多かったので、運悪く、全部が全部爆発してしまった。ちょうど林さんの頭の上から前の対談の相手の人を撮ろうとしてシャッターを切るたびに次々と十二個すべてが爆発して、林さんのパーマの頭の中にガラスの破片がこなごなになって、もう吸いとられるように入ってしまったんです。髪はキラキラ光っちゃうし、料理の上にもみじんに散らばってしまうし、めちゃめちゃになった。写真を撮りに行ったのか、対談をぶちこわしに行ったのか、謝りに行ったのか、もうカァーッとなって、ひどい目にあったことがありました。でも、林さんはべつに怒らないで、「しょうがないわね」って言ってすませてくれましたが、それから間もなく亡くなられたので、心臓病で苦しんでいたのに、あのフラッシュバルブの爆発のショックがいっそう死期を早めたのではないかと思って、しばらく心が痛みました。
p.136 林芙美子 から
- 作者: 林忠彦
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1988/07/01
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